「わたしがわたし自身を生きるための宣言」2021summer

いつも、人前で喋るたびに小さかった頃の自分の姿を思い出す。教室で一人、じっと黙って時が過ぎ去るのを待っていたこと。言葉を紡ぐのが苦手で泣きながら手紙を書いていた時のこと。そうすることで心を守っていた時の自分がいまだ、記憶の隅っこに住み着いている。今の「私」を規定するものはなんだろうか。性別、顔、話し方、出身……たくさんの要素があるだろう。では、「私」は生まれた時、何者だったのだろう。赤くてぐにゃぐにゃとしていて大きな声で泣く不思議な生命体……。ただ「生まれた」と言うこと以外にはなにも携えていない…。きっと何者でもなかったはずだ。もう少しいえば、自分が何者であるかを自分で規定してはいなかったはずだ。気がついたら「生まれ」不意にこの地で生きることになったのであった。

 

  • スキマで生きる

 関東の端っこの山ばかりな町で生を受けた私は小さかった頃の記憶があまりない。一番古い記憶は父が祖国から持ち帰ってきたお菓子をお気に入りの巾着に入れて近所の家に配り歩いていたこと。その時の私は何を考えていたのか。毎日どんなことを考えて、何を楽しみ、そして何を不快に思っていたのか。覗いてみたいくらい記憶がない。

何かがおかしい。と感じたのは小学校に入学し学童に通い出した頃からだった。引っ越して一年ほどしか経っていない時の入学。すでに保育園や幼稚園で知り合いの子たちもいる中私は一人、異質な存在だった。それはただ引っ越してきたばかりだったからではなく、私の容姿によるものなのは一目瞭然だった。どこに行っても視線が痛かった。面と向かって侮蔑されたこともある。好きだった子が先輩と一緒に私を指差して「あのガイコクジンさあ……」と言っていたのも聞いた。初めてだった。自分の顔は自分が一番見ているし、自分が日本ではない国にもルーツを持つことで何か他者と差異があるなんて気にしたこともなかった。本当に不思議だった。この人たちは見てくれで何を判断しているのだろう、と。気づけば私は子どもにしては結構内省的な性格になっていた。なんとなくうまいことやっていけていた保育園の時の友達が軒並み他校に行ってしまったことも大きかったかもしれない。休み時間は一人、じっと座って過ごすことも少なくなかった。

そんな私もだんだんと世渡り術を覚えていく。いくらか友達もできた。そして学年が大きくなるにつれて、〝好意的〟な反応も増える。「ハーフっていいよね!」「まつげが長くて綺麗ねえ」。いつも不思議で仕方なかった。この人たちは私の何を見て何を知って何を褒めてくれたのだろう、と。昔から周囲の人は私の見てくれやこの国に住む大多数の人間との差異を見て、それを評価しているに過ぎないことを知っていた。その浅はかさも、好意的な反応が持つある種の排除性にも気付いていた。私を「ガイコクジン」と呼ぶことと「ハーフっていいよね!」と褒めること。その二つはどちらも“線を引く”という行為に変わりない。褒められたって貶されたって、それは私が線の向こう側に一人でポツンと存在しているということを見せてくれるだけだった。

私がいくらこの土地で日々を過ごしていようとみんなは私を仲間に入れてくれない。この国で私はいつも「異邦人」でしかなかったのだ。しかし「異邦人」で居場所がなくても私の身体はこの場所に存在してしまう。消えることは不可能である。だからこそ静かに生きていけるスキマを探していた。「スキマ」にいることは一種の諦めである。無邪気に私の前へ線を引く大多数の人間への諦め。そして自分を偽ってまで仲間に入ることはない…という

少しの矜恃。それでも、いつも「スキマ」ではない居場所を求めていた。自分が生きていける場所、自分を許容してくれる場所を。

 

 

  • バカ女上等

地元コミュニティー内での自分の「異物」感か最高潮に達していた。地元で進学することを早々に諦め、オルタナティブな教育で有名な中高一貫校にさっさと逃げた。ネットで検索すると出てくる制服もない、校則もない、宿題もない、テストもない、と言う言葉たちに親戚一同は震え上がり似た名前のお嬢様学校を必死で進めてきた。やんわりと断った。勧められた手前見学には行ってみたがそこは自分の生きる場所ではないと本能的に悟った。進学先を知った小学校のクラスメイトたちはお節介にも私のことを大層「心配」していたがそんなこと知ったこっちゃなかった。散々やり方はどうであれ排除されてきたのだ。未練はなかった。

そこは随分と不思議なところだった。都心から出ている電車を終点で降りると、寂れたショッピングモールのようなものが建っている以外何もない。そこからさらにスクールバスで20分行ったところにその学校はあった。周りはひたすら杉の林で近くには川が流れていた。山を切り開いたような場所にひっそりと校舎が林立していた。ここは記憶にないが幼少の頃、短い期間住んでいた場所でもある。記憶にはないが聞いたことのある地名、川の名前にいつも愛着と郷愁を感じていた。

ここが実際に最初から私の求めていたユートピアだったかと言うとそうとは言えない。ルールがない代わりに、様々な立場の人が話し合いに話し合いを重ねて自分たちの空間を作り上げなくてはいけなかった。

 

「お前〇〇なんか好きなの? まじうける。」

あるバンドが何人かの女子生徒の間で流行した。日本中で流行のバンド。メディアで見かけることも多かった。ここでは国内外を問わす往年のロックスターを嗜むことが一つのステータスだった。(その担い手はほとんど男子生徒だったが。)もちろん私だって、そのロックスターのことは知っている。母や海外に住む叔母の影響で聞くこともないわけではない。でも、あくまでも初めて自分で好きになった、興味を持ったことを大切にしたかった。

今まで聞いたことのないようなポップなメロディと不思議な世界観の中で紡がれる詞たちに魅了された。それは仲の良かった友人も一緒だった。そんな私たちに投げかけられたのが「まじうける。」だ。私たちは流行りにすぐ乗っかるミーハーでおバカな女子生徒。彼らは歴史あるミュージシャンを愛する高尚な男子生徒。そこには「趣味の優劣」が存在していた。悲しかった。同時に自分もその考え方を内面化することで「高尚」であろうとした。彼らが聞く音楽をかたっぱしから聞いた。そうすれば私も賢くなれると思ったのだ。

しかしある女性が学校に来たことで私の人生はガラッと変わる。彼女は女性学の第一人者であった。彼女の言葉、そしてフェミニズムと言う思想は私に雷を落とした。私を規定し劣等感を抱かせていた全てのモノが全て幻であったことを知った。もはや彼女が何を話したのか、ほとんど覚えていない。確かフェミニズムに関してはその学問の第一人者である。と言ったような説明のみで、主軸は「当事者研究」に関しての講演会だったような記憶がある。しかしその中で彼女が発する言葉のひとつひとつが私の苦しさ、疑問、怒りの根っこが同じものであるということを表していた。

いつも怒っていた。不条理に、自分を外から規定し、箱に閉じ込めようとするものたちに。でも私が何かに対して「怒ること」はその根源と「決別すること」とは同義ではないことも知っていた。いつだって人間はすれ違う。それが意識的にしろ無意識的にしろ立場の違いから人に悪意を向けてしまうことだってある。その矛先が「私」だったとき、私は私を守ために怒る。抵抗する。しかし、それはあくまでもその人との関係を続けたいという意思があるからだ。自分たちの、私たちだけの空間をともに作り上げるという意思。時に決別してしまった人もいる。私を守ために決別せざるを得なかった人たち。そういう人たちを思い出すたび、胸にすうっと冷たい風が通る。

 

 

  • 自分を生きる

 年を重ねるたび、大人になるごとに私が何者であるかを規定し、枠にはめて排除したり搾取したりする方法は随分と巧妙に涼しい顔をして行われるようになった。そこで抵抗できなかった時、引きつった笑いで対処しなくてはいけなかった時、悔しくて家で一人泣いた。思い出すたびに心に石が詰まって吐き出せないような、「私」が勝手にちぎられて勝手に捨てられてしまうような。そんな感覚に陥った。そんな時ほど映画や本にかじりついて自分に足りないモノを必死に探した。それは多分知識だった。自分を守るためにたくさんの本を読んだ。いかに、混血児が、女が、社会に搾取されることがおかしいかを説明できるようになろうとした。自分の言葉で。そう。自分の言葉を得ること。人の言葉、借り物の言葉を捨てていかに自分の言葉で語るかを探ること。生きていく上での探究心の根っこはいつもそこにあった。「自分の言葉」をうむことは苦しい。それはいつだって一人の世界で行われるし、時にびっくりするくらいつまらないものや難しいものを学ばなくては言葉を得られなかったりする。それでも、人間は「言葉で」思考しているのだ。誰かが語った言葉、誰かの経験ではなく自分が見たもの、学んだもの、自分が経験したことを言葉にする。

悔しい思いをすることは今でもいくらでもある。それでも、それだからこそ! わたしはわたしを生きなくてはならない。それがなんなのか、どう言う方法なのか見極めなくてはならない。他者にわたしの手綱を渡したり、決定権を明け渡したりしてはいけない。わたしをわたしが侮蔑してはいけない。わたしの言葉を捨ててはいけない。

「わたしを生きる」と言うことは自分が何者なのか、自分で規定し自分を許容すると言うことだ。他者にそれを好きにさせないと言うことだ。私はそのために学ぶ。世界を通して自己を知るために学ぶのだ。そしてこれからも私はわたしを生きていくのだ。