[好きについて①]「空と海が出会うところで。」2021summer

 不思議な人だ、と思った。そのしなやかな心と柔らかな目線。でもその奥にある悩みや葛藤を不意に見た時、目が離せなかった。もがいて、楽しんで毎日を生きたその先で手に入れた〝揺るがないもの〟がなんなのか。知りたくてたまらなかったのだ。

 人は大きな変化やどうにもならないことに直面すると案外涙も出ないものである。痛くても感じなかったり痛みが襲ってくるのが極端に遅かったりする。そう、あの日。ある日突然倒れて、死にかけて。気がついたら自分の生活が一変していた時。気がつかなかったけど私はこころが痛かった。怖かった。それがあまりにも大きな暗闇だったから。一人だけで立ち向かっていくことはできなかった。気がつかないフリをしていれば昔のままいられる、と。でもそうしていると苦しみもないけど喜びも薄い。妙にフラットなこころ。薄気味が悪かった。嵐の前の静けさのような、はたまた夕凪の海のような。でもそんなのまやかしで、単に向き合う事を避けていただけだった。〝変化〟を受け入れるべき時がもうすぐそこまできていた。

 それに気づかせてくれた人だった。前置きをしておくと、その人は私の友達でもなんでもない。なんなら会った事もない。最初はその人が仲間と歌ったり踊ったり、ギターを弾いたり演技をしたり何か表現しているのを見ることが好きなだけだった。優しくて、笑顔が素敵で、海が好きで、服装が派手。そんな言葉で形容される人、くらいの認識。でも、たくさんの人がいるなかでふとその人から目を離せなくなる瞬間が何度かあった。いつも目線は柔らかく、言葉はスルスルと出てくるわけではないけどそこにはじんわりと温もりがあるから。たまに見せる思考の海にダイブしているような、真っ暗でそれでて澄んだような目をする時、不思議さを感じるのだった。ファン心というのは不思議なモノで「知りたい」という気持ちと「知りたくない」と思う気持ちが交差する。憧れの存在だからその人の詳しいところまで知りたくない。という人もいれば知れるところまで知り尽くしたい。という人もいるだろう。その人は最初から友人のような。散々、夜通し語り尽くした後のような。そんな感覚があった。昨年、入院し退院後どうにかして生活を安定させようとしていたわたしに友人が勧めてくれた映像の中にその人がいた。

 その人は数年前大きな病気をしたという。今はその病気と付き合いながら表現を続けていて、それが自分の今いる場所からみんなに届けられる精一杯のことだと。気恥ずかしいけど、誰かが私にくれたプレゼントみたいな出会いだったと今でも思う。一口に病気と言ってもいろんなものがある。大きなモノ。小さなモノ。これからずっと付き合っていかなきゃいけないようなモノ。偶然にもその人も、そしてわたしも。これからこの世での役目が終わるまで、ずっと付き合っていかなくてはならないモノを持って生きていくことになった。その都度対処していくしかすべがないという状況はとても疲れる。時に全てを投げ出してふっと消えたくなるような時がある。昔と違ってできないな。と思うことだってある。そんな中でも、苦しくても今の自分ができることを楽しむ姿が好きだった。わたしもそうであろうと思った。

 苦しい時、すべてを手放したくなった時そっとその人のことを思い出す。紡ぐ歌や言葉、文章を心の中で反芻する。そしてその柔らかな言葉と目線の奥にいつも揺らぎや葛藤を見る。きっと発病から時が経ち、「向き合う」すべを見つけたように見えても、いつまでも悩みは尽きないのだと思う。〝変化〟と向き合う姿を見て、私もできることを少しずつやってみようと初めて思えたのだ。

 いまだに終わりは見えない。向き合うべきことがたくさんあって辛くなることも少なくない。それでも、少しだけ、一歩だけ踏み出してみようと思えるのだ。この星のどこかで今日も悩み葛藤し笑いながら生活を営んでいるであろう彼のことを思い出したら。